酷使は日本社会の闇の縮図である。

今晩は。酷使が大嫌いなtthgです。

昨日は下記の少しブログタイトルを逸脱した高校野球の話を書いたが、全くプロに関係ないわけではない。

「公立高校が勝てない」を球数無制限の言い訳に使えないようにする方法。

球数制限したら公立高校が勝てなくなるというのは、高校野球の選手起用に置いて「何かを成し遂げるためには多少選手が健康被害のリスクを負っても構わない」という発想がある。これは正に去年ライオンズの首脳陣が平井投手を酷使したのと全く同じ構図である。



結果平井投手は怪我をして最後の最後でシーズン終戦のキッカケとなる投球を披露した。高校野球は3年生投手は次の年にそのチームに貢献しない。モチロンだからその投手の未来がどうなろうと今勝つ事が大事という考え方はあり得ない。しかし、それでも当該チームの損得という面からは怪我のリスクを負ってもという考え方が出てくるのは仕方ない面もある。

だが、プロはその年で全てが終わるわけではない。選手が健康で次の年も活躍してくれたらオフの補強次第で次にチャンスが巡ってくる可能性もある。(ライオンズの場合は「補強なんかしてくれねぇだろ!」という問題は別途存在するが)その来季のチャンスも潰しかねない酷使というのは甲子園以上に言い訳のできない愚策である。

思うに、このようなリターンに見合わない健康被害のリスクを選手に負わせるというのは日本社会の縮図のような面がある。例えば、いわゆる「ブラック企業」で行われている違反残業なども似たような側面がある。支配下にある者の健康など顧みなくても企業は生き残る事ができる。使われる者は「食べて行く事ができないから仕方ない」と諦める。時にそこから逃げようとすると「真面目に働け」という理不尽な圧力がかかる。ブラック企業を転々とした結果短期で離職を繰り返すと「何かを問題があるから転職を繰り返すのでは?」と勘ぐられる。

法律上は、使う側がめちゃくちゃやってはダメな事になっているが、社会の中でそれが貫徹されているとは言い難い。生命に関わるような事は別として、多少の事は耐えるのが下の者の義務という考え方は以前として存在する。プロ野球で怪我のリスクが上がるぐらいの事では球団がなんらかの制裁を受けるような事はない。(怪我でプロ野球人生終わったら野球人としては殺されたようなものなのだが。)

どこまで使われる側に配慮がすべきなのかという議論はあるとしても、健康を害するまでやるのは長い目で見たら使う側に損である。野球の場合は大事な商品である選手を壊したら翌年以降の成績に響く。ブラック企業だってか結局は人を潰せば人材不足になる。一般社会も球界も最低限使われる側の健康被害ぐらい防止すら余裕を持つ努力が必要である。

本日も最後までお読み頂きありがとうございました。

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