昨日の試合は本当に中止しなくてはならない状況だったのか?
おはようございます。tthgです。
今日はホークスの長谷川選手がコロナに観戦して昨日の試合が中止になった件について。聞けば長谷川選手は二軍で一軍選手との濃厚接触は確認されていないとか。まあ球団職員経由とか感染経路は他にもあり得るが、これがどこまで危険だったのか。この厳しい日程の中、中止にする程のものなのか。そんな事を言い出したら選手の奥さんが感染判明とかでも止めるのか。選手が乗った新幹線の中に観戦者が判明したら中止なのか。正直疑問は多い。ただ、それでも社会としてあまりに敏感な状況なので仕方ないという事は否めない。
だが、そもそもその社会状況が正しいのか。感染者はいくら増えても重症は微増。下手をすると減る日すらある。死者に至っては7月はほぼ0。それに対して経済の影響は計り知れない。経済より命とは良く話だが、経済とは命である。失業率と自殺は大きな相関がある。病院だって金がなくては運営できない。我々が病院にかかる時の保険分(医療費の7割。しかもそれも月額8万とかの限度額がある。それで総額1000万とかする入院・手術できる)もお金が必要である。経済活動を広範囲に止めるということはこういう医療サービスすら脅かす可能性がある。そういうリスクを社会として負う覚悟はあるのだろうか。
例えば、tthgが三月まで住んでいた新潟県はコロナの前から財政難で公立病院の統廃合計画とかを真剣に議論している。弱小自治体の税金投入はコロナ前から限界をきたしており、コロナで税収が壊滅的な打撃を受けたらすぐにでも致命傷になり得る。それでもなお、重症化率や致死率を無視して自粛を続けるのだろうか。
もっと身近な所ではtthgのような就職氷河期世代には非正規の不安定雇用の人がたくさんいる。50近く年代まで単純労働しか経験しておらずスキルもなく転職もままならない人達である。こうした人達はコロナ不況で真っ先に路頭に迷う。その事はリーマンショックの時の派遣村とかを見れば明らかである。その人達の生活はどうやって面倒を見るのか。制度としての生活保護はあるがそれとて税金である。経済を回さなければ原資が担保できない。膨大に膨れ上がる借金の中、安全弁としての生活保護に更に大量の税金投入ができるのか。
リーマンの時すら自己責任論が横行したというのに、コロナだけは特別なのか。特別だと言うならそれは一つの立場だと思うが、tthgはそうは思えない。大量の失業者を自己責任で片付けるならそれは餓死しろと同義である。経済と命は残念ながらイコールなのである。本当にそれで良いのだろうか。コロナは大きな問題だとしても、経済も同様に大きな問題である。コロナで家族を失うのが嫌ならば周りに経済的に多くの人が死ぬ現実も同様に問題である。コロナで自粛することを求めるならば、経済問題をどうするかという視点抜きで語るのはあまりに一方的すぎる。tthg的には一軍に発症者も、濃厚接触もいないのにイベント自体を中止する程コロナ対策を優先できるほど経済問題は軽くないと思う。
本日も最後までお読み頂きありがとうございました。
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