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清原氏の晩年の成績から考える歴史のif

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今晩は。しみじみと黄金時代を振り返るtthgです。

昨日の記事で中村選手と栗山選手を黄金時代の主力の晩年と比較してどうかという事を検証したが、そこで思わぬ発見があった。それは「黄金時代の打の主力は清原和博だった」ということだ。モチロンそんな事は周知の事実だが、晩年の成績をたの黄金時代戦士と比べるとその思いを強くした。


他の主力メンバーは全盛期にもOPSで9割を超える事は少ない。秋山氏やデストラーデ氏も9割越えを経験しているがいずれも30前半までの話だ。その点清原氏は怪我で休みがちだったとは言え33-37歳までのシーズンで9割越えを記録している。薬物問題で本人が使用を認めている興奮剤の影響がどこまであったかという問題はあるにせよ、衰えることがない確たる打撃技術の一つの証明であろう。

その打撃技術があったから高卒1年目から常勝チームの4番を任さたが、晩年の成績を振り返るとその判断が妥当だったと改めて思う。清原氏の野球人としての才能は量り知ることができないぐらい大きかったのである。

だが、一方でその才能はフルに使われる事はなかった。高卒後すぐ結果を出して遊ぶことを覚えてしまった肉体は一時的に20代後半に衰え、成績が落ちてしまった。巨人移籍後肉体改造で筋力をつける事で数字は回復したが、ライオンズ時代にあった身体のしなやかさと美しいとフォームは失われてしまった。また薬物問題の発覚で30代の成績については注釈付きで語らねばならなくなってしまった。

清原氏が若い頃からイチロー氏の様に身体のメンテナンスをしっかりやっていてライオンズ時代のしなやかさを保ったままでいたならば、筋肉や薬に頼ることなく己の技術でホームランを量産できたのではないか?そして世界のホームラン王の名前は王貞治ではなく清原和博のものではなかったか。そんな想像をしてしまう。そしてそれが最後までライオンズのユニフォームで成し遂げられたならば、、、。永遠に答えを出すことができない歴史のifであるがたまにはそんな話をしてみるのも悪くない。

本日も最後までお読み頂きありがとうございました。

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