大きすぎる甲子園の弊害。

おはようございます。甲子園に疑問を持つtthgです。

甲子園の中止が決まった。tthgは学生スポーツである以上学校活動が自粛しているのに開催すべきでないという立場なので致し方ないと思っている。しかし、ながら現場で悲嘆に暮れる球児の姿が報道され、それを見るとtthgとて複雑な気分になる。tthgは下記の記事で開催したいのは私立高校の利権のためでは?と書いたが、悲嘆に暮れる高校の姿を見ると高野連が「球児の夢云々」というのもあながち嘘ではないのかなと思う。(利権の話が全くないとは思わないが。)

高野連が、無観客でも甲子園を開催したがるのは、私立高校の全国TV中継という利権に配慮しているからでは?


しかし、甲子園の中止がこれだけ大きな事件となる事には別の疑問もある。それは「甲子園の存在感が若者の人生を狂わせているのでは?」という疑問である。



本来、16-18の時期に迎える部活動はその先の人生の肥やしになるべき存在だ。勿論甲子園を目標に努力する事は悪くない。しかし、それはあくまで長い人生を生き抜く力をつけるためにあるのであって、通過点に過ぎない。それは野球の道を進むものはもとより、高校で野球を止める者にとっても同じである。

18まで野球しかやってません。甲子園が最大の目標で、他の事は分かりません。大学に入る学力はなくこれからどうやって生きていくべきかわかりません。では残りの人生どうやってやっていくのかという事になる。勿論、野球しかない自分に気がついてそこから色んな勉強をして新たな道を行く人もいるし、そういう人生もありだろう。しかし、それは大きな回り道である。野球をやりつつもそこから他の分野でも通じる事を学び、それを甲子園後の人生に役立つように指導する方が圧倒的に高校生の為になるし、部活動とはその為にある存在だ。

だが、甲子園が中止になるや球児泣き崩れるとか、OBが一様に「球児がかわいそう」「残念だ」とコメントする現状をを見ると、「甲子園は人生通過点の一つ」という認識がどこまで現場に浸透しているのか?という疑問を持たざる負えない。また、甲子園至上主義はプロ野球の側から見ても問題がある。甲子園が人生の最大の目標という空気感が蔓延すした結果、本来プロで活躍すべき選手が、無理な連投や故障しても強行出場を強いられ潰れるという悪夢が起こりかねないからだ。

前々から疑問に思っていたが、大きすぎる甲子園という存在は決してブラスだけでない。今回の騒動を見ながらその思いは特に強くなった。

本日も最後までお読み頂きありがとうございました。

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